kowrinkai

格闘カラテ★楽しんでます !KRK

威風堂々と凛 羽ばたいて鴻 縁尋機妙 多逢勝因 。KRKj2004

地上最強ではないけど、自己最強・最良のカラテ KRK

2011年08月

幸せを感じるとき

少し前まで膝が悪かった。今はほぼ完治です。
健康っていいです。

目が見えるし、歩けるし走れる。歯は丈夫だし、殴りあいもできる。

今ここで、動けることを感謝しましょうや

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火曜日は少なかった。
しかし、それも幸せのパズルのピースです。

真生の実力も安定してる
課題は身体を造ること、進化が止まってます。
悪い意味ではなく、今の状態で最高の状態。

だからね。より進化発展するためにメンタル面も大事ですが、肉体も大事。弱い部分を強化して行かないとね。



お金持ちに大量に触れて初めて気づいた8の共通点
●お金持ちはワンパターンである
去年くらいから、仕事柄、お金を持っている人たちと仕事をすることが多くなった。

お金を持っているの基準としては、一生食べるには困らなそうな人たち。具体的には、3億以上の資産を持っている人たち、といえばいいだろうか。もちろん飛び抜けてお金を持っている人もいれば、数億の人もいるのだけど、だいたい3億以上あれば毎日働かないで暮らせるので、私からしてみれば同じだ。

そして、お金持ちと友達になることで、気づいたことがいろいろある。こういってしまっては何なのだが、お金持ちたちは非常にワンパターンなのだ。

貧乏な人たちは多種多様である。すごくおもしろいやつ、変わったやつがいたり、最高にいいやつから、最低に悪いやつまでいろいろいるが、お金持ちはほとんどパターンがない。もちろんこれは絶対的に貧乏の数のほうが多いわけで、数が多いから多種多様であるだけなのかもしれないが、それにしても、である。

おそらく、お金持ちの行動や考え方のパターンが似通っているのは、それなりの合理性があってのことなのだろう。逆に、そのワンパターンの行動を真似すれが、お金持ちになれる可能性があがるのかもしれない。

そこで、私が知ったお金持ちたちの共通点をまとめてみた。何かの参考になればと思う



●お金持ちたちの共通点


お金持ちは親切である
お金持ちはとにかく親切である。異常と思える親切なことをしてくれる。金銭的な面だけじゃなくて、「こんな大物がこんな手間をかけてくれるなんて」と驚くようなことまでしてくれたりする。

これはおそらく、親切にして得られる信用は費用対効果がいい、とわかってやっているのだと思う。とある社長がやってくれたこと(だいたい社長個人の作業として30分くらいかかりそうなこと)で、私は感激し、数百万円くらいの仕事を紹介したことがある。数百万円は大きな会社にしてはたいしたことがない数字かもしれないが、それでも30分くらいの手間で、数百万円の売上が立つなら、悪くない投資である。



お金持ちは無駄遣いをしない

お金持ちはとにかく無駄遣いをしない。100円で買えるものが150円で売っていたら、滅多なことでは払わない。お金持ってるからいいじゃないか、と私が思うようなことでも、無駄なものには一切お金を払わない



お金持ちはお金を使う
お金持ちはお金を使う。無駄遣いはしないが、お金は使う。

うまくいえないが、お金を流すということを意識しているのではないか。自分のところに貯めておかずに、流れをよくすることで、より自分にお金がはいるようにしているのだと思う。

いわゆる投資もそうだが、若い人やこれからの人を支援したりすることには時間とお金を惜しまない。そのことでよりお金が回ることを知っているからだ。



お金持ちは周りを大切にする
お金持ちは周りを大切にする。無駄遣いは一切しない代わりに、友人に贈り物をしたり、私のような一般人に高級なディナーをおごったりする。

これは、その行為を投資だと思ってるのかな、と思ってたのだけど、そこまで合理的ではない。ただ周りの好きな人間を大切にしたいという気持ちのようだ。




お金持ちは勉強する

お金持ちは勉強をする。とにかく本を読む。講演を聴く。人から教えてもらう。

勉強したことが無駄にならないことをわかっているからかもしれない。




お金持ちは語るより聴く

お金持ちは語るより聴く。人にたいして自慢話をしたりはあまりしない。むしろ人から話を聞こうとする。

考えてみれば当たり前で、自分の話をするメリットより、人の話を聴くメリットのほうがでかいわけだ。ペラペラ自分の話ばっかりするお金持ちはあまりいない。




お金持ちは挑戦する

お金持ちは挑戦をする。やったことないことや、苦手なことをやってみようとする。たとえば、ゲームセンターなんかにいかない人たちだが、たまたまいったら流行っているゲームをやってみようとする。普通の人は面倒になって見てるだけだったりするのだが、積極的に挑戦をしようとすることが多い。

失敗するリスクの低さと、経験のリターンの大きさを知っているのだろうか。




お金持ちは短期的にネガティブ、長期的にポジティブである

お金持ちは短期的にネガティブ、長期的にポジティブである。よくお金持ちはポジティブな人が多いと言われるが、実際には、そうでもない。短期的には悲観的だったり不安に思ってたりすることが多い。避けられる失敗はなるべく避けようとする。

一方で、将来的に自分がどうなるか、などに関しては驚くほどポジティブである。長期的に悲観になっても無駄だということを知っている。逆に、短期的に「まあいいか」と楽観的になると、のちのち悪いことが起きるのを知っているので、目の前のことに対しては真剣に考える。



最後に

私が知っていることをまとめてみたが、実際にまとめてみると驚くほどシンプルである。だがこれを全部できてる人はなかなかいない。

お金持ちになりたいと思っている人は、マネしてみるといいことがあるかもしれない。

転載元:こちらは匿名投稿『はてな匿名ダイアリー』からの転載です。




なるほどね。お金の悪口言っている人とか、人が幸運に出会って楽しげで幸せそうな人を見ると、過去の事を持ち出して悪口言う人とか、ついでに天気の悪口言う人とかね。

そんな人たちは、食うに困らなくてもお金持ちにはならないね。
それなりに、高価なものもってても、きっと内臓とか壊したりするね。

間違いないね。幸せそうではないでしょうね。

・・・しっかり『はら』に刻み込みます(*^_^*)

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真実は、知らされていたものとは、少々違うようです。
最近ですが、新しく知り得た事ごとで、物事考えていると、腑に落ちてきた。

新しく知った事ごとと、そして歴史が『ピタリ』と納得ゆきます。



━─━─━─━─━─━─━─━─

昭和20年8月の終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。

物価も高騰しました。

食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配してた。

その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がった。
そのきっかけとなったのが、昭和天皇の全国行幸だったといわれています。

そこで昭和24年5月に、陛下の佐賀県行幸のときのお話しを、書いてみたいと思います。

感動です。

昭和天皇の行幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、総日数は165日です。

実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、我々平民と違って、休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。

そうしたお忙しい日々を割いて、全国行幸をされました。

この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。

しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜


当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の大義という価値観さえも失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価も高騰する。

お腹を空かせた家族のために、闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。
いわば無政府状態ともいえるたいへんな状況だったのです。

そういう状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
そんなとき、陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。

未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには何が必要か。
いまの世の中なら、すぐに財政出動だ、何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、あの時代に陛下が選択されたのは、全国民の真心を喚起するということだったのです。

国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がること。
そのために陛下は、「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与え」ようと、全国を回られたのです。

ところが、共産主義に感化された一部の人々は、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊るし上げようと、各地で待ち受けていた。

そんな中で、実際の陛下の行幸で何があったのかを、佐賀のケースで見てみようと思うのです。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されています。

因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。

その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。


 やすらかに
  眠れとぞ思う きみのため
   いのち捧げし ますらをのとも



 なぐさめん
  ことのはもがな たたかいの
   にはを偲びて すぐすやからを



というもので、陛下もこのことにいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。

また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていたのです。

陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。

その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていたそうです。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、などと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていたといいます。

朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。

群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがります。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがった。

御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみます。
一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立つ。
そのあとから、陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがります。

陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まったといいます。

ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの感動が、群衆を包み込んだ。

お車を停められたところから、因通寺の門まで、約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていた。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープとかもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。

そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返す。
その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。

陛下が寺の山門に到着します。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段がある。
その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられたそうです。

そうです。
石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。

陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされます。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。
寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。

図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べます。

「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」

そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいます。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。

するとそのとき、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申された。
すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったのだそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所のことについてご説明申し上げることになっていました。

自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分は、あんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせると、住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ます。
そして書いてある奏上文を読み上げた。

「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」
住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げた。

ところが、ここまで読み上げたところで、住職の胸にもググっと熱いものが突き上げます。

引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのだそうです。

意識は、懸命に文字を探そうとしている。
けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまった。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

そのとき、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じた。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。

このとき、住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にない、と思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。

こうしたことは、外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるというときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。
駐日大使というと、長い方で6〜7年、短い方でも2〜3年の滞在なのですが、帰国前に陛下にお目にかかってお別れのご挨拶をするとき、ほとんどの駐日大使が「日本を去るに忍びない、日本には陛下がおいでになり、陛下とお別れをすることがとても悲しいともうされるのだそうです。

この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかるのだそうです。
そして陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべられ、言葉を詰まらせる。

特に大使夫人の方々などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。

こうしたことは、その大使が王国であろうと、共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。

むしろ共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示される。

さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。

この奏上が終わると、何を思われたか、陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられた。

「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と住職に申された。

住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれます。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。

「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。

そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。
その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」と申された。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられます。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。

それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされた。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、静かなお声で、
「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中のこの手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。

陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになります。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが新設にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。
部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちた。

そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。
これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。
東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていた。

子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。

その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、

「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてくる。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられます。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。たったひとりの息子でございました」
そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあった。
そばにいた者全員が、この様子に涙した。


遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれます。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められた。

そこでは、若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていたのです。

実はこの人達は、シベリア抑留されていたとき、徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達です。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もす陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。

そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。

そうした意図を知ってか知らずか、陛下は、その一団の前で足をお止めになられます。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられた。

「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国があある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」

陛下の長いお言葉だったのですが、そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまった。

「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきます。
そして、

「天皇陛下さま。ありがとうございました。
いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、着の身着のままでした。
外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。

しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。

今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」

と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。

すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。

彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられた。
何も言うことのない、感動と感激の場面だったそうです。


いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申したそうです。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申された。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。

宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。

 みほとけの
  教へ まもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ



※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」

セルフイメージとは『自分はこんな感じの人物だ』
『自分のことをこんな風に思っている』といった自己のイメージです。

『自分は平凡な人物だ』
『自分はよく失敗する人物だ』 とか

『自分は何をやってもうまくいく』
『自分が失敗するなんてありえない』とか。

自分がどんなセルフイメージを持っているかを知らない人が多いみたいです。

そして人は、自分のセルフイメージを超える

機会に出会っても気づいたり、活用したりとかができないみたいです。


『自分は平凡だ。試合で活躍するなんてありえない』

そんな思いがある人は、活躍できる実力あるのに試合で後手にまわり、思うように実力が出せないとか、

試合が始まると『負けるのが自分らしい』『僕がカッコいい動きで相手に勝つなんてあるわけない』『相手にやられるのが自分らしい』そんな風に、自分が自覚していないセルフイメージにコントロールされていたりするらしいです。

今度の試合で『どんな相手でも自分の持っている技と力をすべて出してやる。』そう自覚して試合がはじまると、深層心理にある自己イメージが、『やっぱり活躍するのは自分らしくない。自分は何もできずに負けるのが自分らしい』その思いがいつの間にか、身体を支配してしまう。

試合に勝って活躍するより、失敗するほうが自分らしいと思っているので、

失敗することに  『安心してしまう』


本人は『なぜ僕はちゃんとできないんだろう』と思っているが、深層にいる自分は『ちゃんとできない自分』に安心してしまう。
それは、今までの自分と変わらないから、変化してないから、

人は変化が怖いらしいです。


たとえ普段の稽古で得た技術を出し切って勝てないとしても満足いく動きができたり、試合に見事に勝利したら
『何か変だぞ』『自分らしくないぞ』


今までの自分が『変だぞ』と不安に思うのです。


だから、自分をシッカリ表現しようとすると、不安とか罪悪感が自分を支配してしまうらしいです。
『今までの自分』は今までと変わらない、だから安心。
ヒーローでなくても、シッカリものでなくても、今まで生きてきたし、生活してきたから、今までと変わりなく生活できるから安心なのです。

成功 しようとすると 

現状維持のメカニズムが働きだす。

『現状を維持しようと』です。

親が、冒険する子供を心配して、今までどおりの生活をさせようとする。

すなわち


『泳げるようになるまで、泳いではいけません』 


そう、自分が自分のために言っているのです。自分のために。
変化が無いということは、今日も明日も今までどおり生きていけるから。

自分が嫌われ者だと思っているなら、新しい仲間ができるときに、なぜか相手に嫌われることをしてしまう。

よく男性に暴力を振るわれる女性は(男性は)おとなしくて優しい男性と付き合っても暴力を振るわれるらしいです。暴力でなくても、かなりの、罵り合いになったり。

相手に対しての思い込みや先入観。
これも自分が持っているセルフイメージからきていたりします。

自分は、こんなタイプの男性はこんな人物で、こんなことをする人物だ。とかとか、

自分が持っているセルフイメージ。
自分に対して持っている意識。

自分はその世界の外には出れません。
出るためにはどうするか。
出るのではなく、自分の器を広げる。
許容範囲を広げる。

どうするか?・・・・

たとえば『臆病だな』といわれたら『臆病じゃない』と見栄をはって否定するんじゃなく、『やっぱり僕は臆病なんだ』と落ち込むでもなく、

『ですよね。でも、臆病だけど稽古は頑張ってしているんですよ。』とか、 
こんな風に一度軽く肯定してみて、さらに一度自分の頑張りを表現する。

『身体が硬いな』と言われたら、
『硬いでしょ。この硬さでどうやったら技が活きますかね。』

気にしているところでも、真実に近いなら一度認めて、そのままで自分が表現できる方法を尋ねてみる。

それから、勇気の出し方とか、柔軟性の上げ方とか、前に進むための方法を聞いたり、考えたり
まずは現状のままでの進化とか向上とか。

現状を意識して、認めて、それから一歩前に進んで。

そして 『俺ってサイコぉー』とか
     『ヤルさ 出来るさ マカシとけ』とか、


思考と言葉と行動を造ってゆく

思考と言葉と行動 これは大事ですね。

さて、自分は 自分を どんな自分と思っているのか。
自分ではわからないから、自分以外の人に聞いてみた。

身近な人 あまり身近でない人。第一印象に、付き合いが少し長くなった人に


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今日の稽古は基本と移動とミット

まず基本ですが・・・・やはり呼吸は少しきついかな。

移動稽古も・・・喋りがきついです。。。。

そして切れが余りない。

 

三年ぶりにやってみた基本と移動二日目。。。
一応気合い入れたまま徹すことが出来ましたがね。

なんかすこしね。あと少し続ければ元に戻るかな


『いや、戻す』

もどします。その勢いでだね、そう勢いで
よし、勢いだけで支部を出すぞ。(話飛んでるし(^_-)-☆)

支部代表指導員 『則松鷹野』でいこう。

(*^^)v それも楽しそう。

そうなると嬉しいですけど、ならなくてもいい。なったら稽古相手がイッパイ出来て選手復活が近いね。どうであろうと、楽しいが一番すね。

ここは田七飲んで身体をメンテナンスだね。
次に動画アップの時は、もっと切れが増してると思います。お楽しみにィィィ・・・て、楽しみは僕だけかな(^_-)-☆

皆も頑張って汗かいてますしね。

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カケル達に聞いてみた。

『誰が強い?』
『・・・帆拳の突きが痛い。。』との返事です。

いや・・だから・高学年クラスで・・・。
でも、帆拳の突きが痛いそうです。
たしかにね。蹴りでも単発なら切れがあるもんね。

ヤラサレ感が強いけど、まね、それでも稽古には来る。
頑張ろうな。

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まっくろに焼けている『ゆうだい』
・・・今日は顔が白かった。

暑さと稽古の辛さで、少々ダウン気味かな。
でも、元気良かった。

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夜遊びが楽しい年頃

これからは夜遊び後の稽古は参加禁止な(-_-メ)


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