2011年09月
行動が美学 美学として行動
人の恐ろしと思うは鬼なれど、
目に見えぬと言えば、名のみなり
実に恐ろしいと言うは、只人なり。
何が恐ろしいって・・・。
試合に向けた稽古もしないのに『試合に出る』
と、言う奴
『カケル』はヨシとする。
普段から地道にやってるし。
もちろん『ナオセ』と言っているところナオッてないけど、
無くて七癖ですし。本人も意識していることだし。
が・・その弟君・・・。
親は出場させてもいいみたいですが、
僕の方で断る確率70%。
小学生に気持ちの在り方説いたところで・・・うーん。。。
経験積ませることも大事だが・・・・簡単に考えられるのも・・・。
うーん。。。
出場する選手が多い方が個人的にも嬉しいが・・・・うーん。
そんな気持ちで出場許可するのは違う気がする。
うーん。。。
が、経験とか・・これがきっかけでその気持ちが熱くなると嬉しい気もするが・・・うーん。。
てな感じで悩めるのですが、僕のなかで判断基準は出来上がっているので問題ないのですが、周りの者に正確に伝わらないと、変な勘違いをされても困るので、少し反省してる今日この頃。
to-yなんかは稽古もするし、意識も芽生えているから、気持ちさえ入ればいいが。。。
(コイツは出るのだろうか?)
稽古すら集中できない『おこちゃま』はね。。。
美学として
『行動が美学の星 実践が結果の世』
行動・・試合に出ると言う行動は
が、そのための稽古が
やはりここは
成功には何のトリックもない。
私は私に与えられた仕事に
全力を尽くしてきただけだ。
カーネギー
君の稽古に全力をつくせ。
トロフィーが欲しいで試合に出るなら
それに見合った人物であれ。
もらったところで誰かが誉めてくれるだろうが
誰も認めてくれやしねぇーぞ
才智 金曜の才智と土曜の才智
才智乏しき故なり
by 沢庵和尚
画像はココからもらいました。
あみねこといっしょ★ママの日記
逞しさが増した中学生。
それと同時に横着さも増した中学生。
年齢的に怠惰なカッタルイ表現は心理的にも肉体的にも当然だそうです。
でも、道を外れていくのであれば少し厳しく。
ソレが正しいのか解りませんが。教えている事が少し道を外れると
タダの『暴力』になる格闘技
過去から今まで、中学生には少々厳しくした僕ですが。。。。。
ココはヒトツ心理学の勉強もしなくては。
本当に厳しくでいいのか。悩むところです。
『厳しく』と一緒に『話を聴く』
『聴くという技術を』学ばなくては、セミナーにも参加してみよう。
コレは道として必要な気がする。
そして僕が持てる才智は、誰になんと言われようと、見せびらかす。
道場生にも、その親御さんにも。
すべてを教えて、それから本人の判断と覚悟で吸収してもらう。
廻し蹴りも 後ろ蹴りも 後ろ回しも、しっかり吸収して
自分の形を創り上げた『ちゅうき』
スピードもぴか一
おこがましいでしょうが、人格造るのに
思考・言葉・行動 このへんの指導も僕が役に立たなくては。
この男、人の役に立とう。自分が縁の下の力持ちになろう。後輩の手本になろう。
その思考が生れ言葉にして行動した時点で、人生が好転して強運になるはずです。
それをわかってもらうためには・・・
鍼灸師になったとしたら、ものすごく ソレ が役に立つと思う・・。
いや、必要だ。
僕が彼の事を、そんな風に理解しているだけかも知れんけどね。
・・・どうしたらいいかなー。。。。
コイツとは幼い時から一緒に稽古しているから、息子みたいなもんだしね。
・・・・・<(`^´)>俺頑張る。
頑張ると言えば
さて今日の柔術。
(柔術衣着ている僕は強そうに見える。)
7セットのスパーは 5セットどまり
個人的には、『良し』としとこう。
ま、あまり頑張ると皆がツイテこれないだろうから<(`^´)>
佐々木先生も次の日仕事だろうから、このへんで勘弁してやろう
キ…キツカッタ
自分が目指すは
『全天候型打撃格闘技』
ま、総合の事ね。そのためには柔術がしっかりできてないといけないね。
で、現実的な柔術の話。
何をしていいのか解らない状態が正直なところ。
勝負だから『一本』獲りに行く。
その前に『柔術の組み手』を出来るようにしないといけない。
まず相手と組む・・・?どう組む、組んで何する。
同時に自分が何されているのか、理解する。
でもね、理解できてないし、やってる最中よく解ってない。
『隙間』 が、脇の下に少々あいているだけで次の動作がうまくいかなかったり、 技がかからなかったり。
・・・・・。
で、どうするか・・・・・。
答え 地道に基本的な稽古して、
スパーリングの回数こなして、
経験積みまくる。
ヤッパこれですね。
基本基本。基本のママでなくても、自分の形にしていく。
日本・真実は
彼らは、日系人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれたのです。
第一次世界大戦が終結した1919年、パリで講和会議が行われました。 このパリ講和会議は、第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことがないために「国際連盟」を創設しようという会議でもあった。
このとき、米国の黒人たちが最大の注目したのが日本でした。
日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲て、講和会議に参加したのです。
日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄ります。
このとき「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、
「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、との嘆願書を、日本の使節団に出します。
米国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願をしているのです。
「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。」
これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていたのです。
パリ講和会議で、日本の“人種差別撤廃法案”は16カ国中、11カ国の賛成票を得ながら、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられます。
全米の黒人たちは、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動を続発させます。
そもそもアメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、日露戦争の時です。
白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて、果敢な戦いを挑んだのです。
冒頭にご紹介したデュボイスは、白人による支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっも高い国として、日本を支持しました。 日本が勝てば、やがて“アジア人のためのアジア”を声高に叫ぶ日が来るだろう。 それは、自分たち黒人の母なる大地であるアフリカに同じような声がこだまする前兆となる、と考えたのです。
そしてその考えは、全米黒人教会の意思にもなります。
黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載します。
「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。
事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。
有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。
長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。」
そして、日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、という白人優位の近代史の神話を事実として否定してみせたのです。
当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べています。
「ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。
同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を患者は得ることができるのだから。」
1923年の関東大震災では、ある黒人が「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書します。
それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。
「たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか。」
同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していきます。 万国黒人地位改善協会は、
「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。
「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。
なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだといいます。
1936年、イタリアがエチオピアを侵略します。 アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として支援しようとします。
アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事が、アメリカの黒人たちの心を動かしたのです。
「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、
「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけにはいかない」
「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」 と明言したことを伝えています。
また「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じました。
そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画です。
これは実現には至らなかったものの、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠でもりました。
シカゴ・ディフェンダー紙は、 「海を越えた二人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じています。
「20世紀の日本人−アメリカ黒人の日本人観」の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次のように我々日本人に呼びかけています。
「歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それがアメリカ黒人だった。・・・この本を読んでいただければ、日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、心から理解してもらえるはずである。」
パリ講和会議における日本の提案は、当時の白人社会にはとてつもなく大きな爆弾であったといえます。
国富の大部分を、人種差別と植民地政策によって得ていた欧米資本家や貴族たちにとって、植民地を失うということは、すなわち国家の崩壊であり、資産家たちの破産を意味するものでもあったのです。
それだけに、人種差別撤廃を堂々と主張する日本は、彼らにとって、どうしても許すことのできない相手でした。 日本をなんとかして封じ込めなければならない・・・そのことは彼らにとっての意思となっていきます。 逆に日本はどうかというと、なにも国際的地位向上のために人種差別を主張したわけではない。
そんな奢りや高慢は、当時の日本にはまったくない。 そのことは、現代、いまだって同じです。
いまでも貧しい国、衛生面で問題のある国、法的整備が遅れている国、学校のない国に、日本人はふつうに出かけ、援助し、協力し、互いの発展を願って活動している。