土曜日の真夜中から出雲大社に行く予定でしたが、少し早まり、朝から行く事に。
柔術休まなければいけないのが少し残念。

縁結びの神様でありますので、
縁尋奇妙・多逢勝因がたくさんありますようにとお参り、そして感謝。

神無月という事は、出雲では神有月です。
日本中の神様が集まり会議をします。

多逢勝因に感謝。縁尋奇妙に感謝。

お参りしてきます。


勾玉(まがたま)のお話


  -{^∀^}--{^∀^}--{^∀^}--{^∀^}-


┌【1】勾玉(まがたま)のお話 ◆
└────────────────────────

勾玉(まがたま)

http://amy.to/html/whatsmaga.html

勾玉(まがたま)は、写真で見られたり、昔、学校で習ったりしてご存知の方も多いことと思います。

勾玉は、曲玉と書くこともあります。
古事記では「曲玉」と表記され、日本書紀では「勾玉」の文字がつかわれています。

勾玉は、縄文時代の遺跡から多数出土しており、古いものになると、なんといまから1万年以上も前の縄文時代初期の遺跡から、新しいものでは古墳時代の遺跡からも出土しており、なんといまから3000年以上も前に、朝鮮半島へも伝播した形跡がみられます。

勾玉は、一般には縄文初期の頃の耳飾りが原型といわれ、その後、古代日本の装身具か、祭祀に用いられたものとされています。

その勾玉について、こんな話を聞いたことがあります。


いまから2700年前に、神武天皇が初代天皇として日本を開国なさいましたが、天皇家は、それ以前から上方様(うわかたさま)と呼ばれた時代が約6000年続いた、というところから物語がはじまります。

上方様の時代、天皇家は末子相続制で、子供たちの中でいちばんおとんぼ(最後に生まれた男の子)が、家を継いだ。

子だくさんの時代であり、たくさんいるお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは、民間に降りて婚姻し、人々と血縁関係を結んだ。

人口が増えてくると、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちの一部は、新しい土地を求めて、土地を去って行った。

そのときに、上方様の血族であるという証に、勾玉をもらっていったというんです。
勾玉は、湾曲した石ですが、その湾曲した部分には、ご皇室の魂が宿るとされた。
去って行ったそれぞれの家族は、それを我が身の係累の「証」として大事な折には身につけることを伝統とした、というのです。

そうして何世代かが経つと、それぞれ他国の土地に定着したお兄ちゃん、お姉ちゃんたちが、はじめはひとりふたりだったものが、幾世代を経て、何百人かの集落となる。

こうなると、同じ先祖を持つ親戚同士(村同士)でも、何百年も交流がなくなることがあり、そういう村同士が、ある日、なんらかのことでトラブルになる。

まあ、イクサが始まろうとするわけです。
村同士のイクサですから、これは村国家の一大事です。

当然、村長であるリーダーは、胸にご先祖伝来の勾玉を下げてイクサの場に赴く。

で、相手の村国家の軍団と対峙してみると、なんと、相手の村長の胸にも、同じ勾玉が!

そこで、
「やあやあ、あなたも上方様のご一統ですか」
「ハイ、私は何代の○○様の時代にこの土地に来た者です」
「そうですか。私は何代の□□様の時代ですよ」
「それなら、お互い親戚ではありませんか。ならばイクサなど辞めにして、一緒に酒でも酌み交わしましょう」

などとなって、流血事件が避けられたのみならず、互いの村国家同士の交流が深まり、互いに発展することができた。

そんな「証」が、勾玉であった、というのです。

ボクは、このお話を聞いた時、正直「へえ〜、なるほどなあ。でも、いがいとそういうことが真実であったのかもしれないな」と思いました。

いまとなっては、記録もない遙か古代のお話です。
その時代にボクは生きていた当事者というわけではありませんから、実際のことは正直わからない。

けれど、イザナギ、イザナミのミコトが、天の浮き橋に立って、天の沼矛で海水を書きまわして引き上げるときに、矛(ほこ)の先から滴った潮が積り固まって日本列島になったといわれても、ボクにはどうにも壮大すぎて理解できないけれど、神武天皇が、忽然とこの世に出現して日本で世界最古の王朝を築いたわけではなく、神武天皇の出自である天皇家は、それ以前の遙かな昔から、日本を統べる皇家であった、というお話は、なんだかとってもリアルで、実際にそうであったのであろうと納得できるお話だと思う。

日本で出土された大平山元1遺跡の土器は、いまから1万6500年前という、とほうもない古代の土器です。
これは、世界最古の土器でもあります。

1万年前という時代は、そういう名前のハリウッド映画もあったけれど、西洋ではまだ旧石器時代です。
それよりもさかのぼること、6500年もの昔、日本には土器があった。

土器がある、ということは、そこに集落があり、言語があり、文化があったということの証拠です。

つまり日本では、西欧がまだ原始時代で、石オノを持ってウッホウッホとやっていた時代に、それなりの社会的文化的生活が営まれていた。

縄文時代初期の頃の日本の人口は、日本列島全域でおよそ2万人程度であったろうといわれています。
その人たちが、現代にまで延々と続いて、日本人を形成している。

計算上は、約700年で、1組のカップルから誕生した子孫が1億2700万人になるのだそうです。

1万6500年前からといわず、神武天皇の即位した2671年前からだけでみても、日本人であれば、誰しもが一度や二度は、同じ胎内から生まれたことになる。
つまり、生粋の日本人であれば、みんな、何十世代という尺度でみれば親戚関係ということになる。

そしてちょっと古くて戦災で焼かれなかった旧家なら、どの家にもある家系図をずっと追っていくと、先祖はみんなご皇室にたどり着きます。
これは、「そう書くことで家の権威付けをした」というのではなく、実際にその通りの、もしくはそれに近いことがあったからではないかと思う。

おそらく日本人のDNAを追ってみれば、みんなが同じ先祖を持つ同じDNAを持っている。

そしてその日本人は、縄文時代という2万年近く続いた古い時代において、全国で数万か所発掘されているすべての遺跡から、対人用の武器が出土していない、という民族の歴史を持った国民です。

なぜか女性用の装飾品は、数多く、それこそ何万と出土しているけれど、武器の類は、小動物を狩るための道具としてのものは多数出土しているけれど、対人用に威力を発揮するような出土品は、まったく出ていない。

日本人は、その国民性として現代に至っても、武器を手にして威張る人よりも、汗を流して働く人を尊ぶ風潮があり、それはほとんど日本人のDNAのなせる業であるとしかいいようがないくらのものです。

日本人は、古来、戦うことよりも、互いに協力し、労働して生産することに意義を見出す
ことを良いこととしてきた。
震災のような苦難があっても、その都度、みんなで創意工夫し、難局を乗り越えてきた。

戦後、GHQの占領政策により、そしてGHQが去った後は、権力を握った左翼系学者や左翼政治家、あるいは日教組のようなGHQが生んだ教育破壊団体によって、日本人は、ある意味「いかれた教育」を受け、それを社会的風潮にまでしてきたといえます。

けれど、今回の震災でわかったことは、いくらねじまげた教育を施して日本人を歪めようとしても、いざとなったら、日本人の美質は如何なく発揮されるということでした。

私たち戦後世代は、日本人は悪者だ、日本の伝統や文化は見直し、破壊することが正義であると教わってきた。
それはいまも続いています。

けれど、このたびの震災を経由して、私たち日本人は、もう一度原点に帰って、日本人という生き方を見直してみたらどうかと思うのです。

自分のために生きるのではない。
肉親からいただいた命を大切にして、周囲の人のために生きる。
自分ひとりの人生ではなく、みんなとのかかわりあいの中に、自分の人生がある。
人のために尽くすことが、結局は自分のためになる。
故郷を愛し、国を愛することは、恋人や妻子を愛する、あるいは友人や仲間たちを愛する気持ちの、同じ延長線上にある。

そんな、古い日本人なら、ごくあたりまえに持っていた国民感情を、私たちはもういちど取り戻してみる。
そんな時代にはいったのではないかと痛感しています。


 v(^∀^*)ノ*:。。.:*ヽ(*^∀^)ノ*:.。。.:*




回回回回回回回回回回回回回回回回回回回
<編集 配信> 『日本の心を伝える会』
ホームページ http://www.nippon-kokoro.com/
モバイル日心会 http://nippon-kokoro.com/kei/index.html
メールアドレス info@nippon-kokoro.com
<代表者ブログ>ねずきちの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/