メチャクチャ長いので気合い入れて読む人は呼んで


2011年10月13日に、福井県若狭町の鳥浜貝塚から昭和59(1984)年に出土していた漆のの木の枝が、約1万2600年前の縄文時代草創期のものであることが、東北大の鈴木三男教授(植物学)ら研究グループの調査で分かった、というニュースが流れました。新聞などでご覧になられた方も多いかと思います。

この漆の枝は、長さ約20cmくらいの木の枝です。
森林総合研究所(茨城県つくば市)で、2005年に顕微鏡で漆と突き止められました。
今年8月には、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(通称:暦博)で放射性炭素による分析が行われ、なんとそれが1万2600年前のものであることが判明しました。

実はこれはたいへんなことです。
単に日本に漆の木が自生していたという話ではありません。

なぜなら漆の木というのは、漆塗りのための樹液を採取するために木を植えただけでは育ってくれないものだからです。下草を刈って、毎年毎年手入れをしながら、樹液の採取ができるようになるためには10年近くもかかるからです。

ですから民家、村落があった証拠である貝塚から、漆の木が出土したということは、いまから1万2600年前に、すでに人々が定住し集落を営んでいた、漆の木を目的をもって栽培していたということの証拠です。

考古学者の中には、そのころの日本人(縄文人)は、まだ定住性がないから、漆は「栽培」したのではなく、「自生」していたにすぎない、と反対する人もいます。
こういう学者は、あくまで漆は支那から渡来したものと言いたいらしい。

けれど検査の結果わかったことは、この漆の木片は、日本固有種であって、渡来ものではない、ということです。
さらにいうと、いまから9000年前の漆塗りの製品として、北海道函館市の垣ノ島B遺跡で漆塗りの副葬品が発見されている。

なるほど漆は、長いこと支那から日本に渡来してきたものだと言われてきました。
支那の浙江省、河姆渡(かぼと)遺跡で発見された漆椀は、いまから約7000年前のものです。同省の跨湖橋(ここきょう)遺跡で発見された漆塗りの木弓が約8000年前のものともいわれている。

けれど、なにせ白髭三千丈の国です。
そもそも河姆渡(かぼと)遺跡というのは、いまから7000年から6500年前の遺跡です。漆椀の7000年前は納得できるとしても、漆塗りの木弓だけが8000年前のものだというのは、どうも眉唾の可能性が高い。今後の年代測定の確認作業が待たれるものです。

要するに何がいいたいのかというと、漆塗りは、日本で生まれ、支那に伝播した可能性が高い。

日本で発見されている漆塗り製品の方がはるかに古く、漆の栽培の痕跡は、支那の河姆渡(かぼと)遺跡や跨湖橋(ここきょう)遺跡のものより、さかのぼること4000年〜5000年も古いものであるということだからです。

地政学的にみると、もっと面白いことがわかります。
日本ではいまから7300年前に、鹿児島の南にある鬼界カルデラで火山の大爆発が起こっています。
これは「アカホヤの大噴火」と呼ばれ、日本史上最大の火山の大爆発です。

この噴火で地表に出たマグマは1兆3000億トン、噴出量の対数からはじきだされるマグニチュードは、8.1です。東日本大震災以上です。
噴出した火山灰は、遠く東北地方まで降り積もっている。

噴火のあった7300年前というのは、注意が必要な時期です。

実は、大陸から渡来されたとされる稲作ですが、この稲作に関する遺跡が日本では、岡山県の彦崎遺跡や朝寝鼻遺跡で、8000年前のものとされる水田跡や大量の籾(もみ)の化石が見つかっています。

稲というのは、そもそも熱帯性植物です。
その熱帯性植物を温帯地方の日本で育てるのです。
水田は、田植えの頃には田に水をひき、稲の生育に合わせて田から水を抜いて乾田にするけれど、これは熱帯地方の雨季と乾季を人工的に現出させるためのものです。

田に水を入れたり抜いたりするには、水の「水位を変える」という灌漑(かんがい)技術が必要です。
これはすごい技術です。いまどきの言葉で言ったらイノベーションです。革命的技術革新と言っていい。
そして古来、こういう工夫は、日本人のお家芸です。

一般に稲作が始まったとされる弥生時代は、いまから約3000年前から2000年前頃までの時代です。
ところが8000年前には、日本で既に稲作が行われていた。
そうすると、弥生時代に「大陸から稲作が伝来した」という教科書の記述は、どうやらかなりあやしいということになります。

つまり日本では、いまから12600年前には漆が栽培され、9000年前には漆塗りの製品が普及し、8000年前には灌漑農業による稲作がはじまっていたのです。

そして7300年前には、アカホヤの大噴火が起こり、甚大な被害が発生する。
降り積もる火山灰は、農作物に壊滅的打撃を与え、人々の生活を奪います。
多くの人が亡くなったと思うけれど、そういう大規模自然災害のなかにあっても、生き残る人というのは必ずあります。
その生き残った人々はどうしたのでしょうか。

鹿児島県沖で起こった噴火です。
おそらく南九州地方の人々は、壊滅的打撃を被ったことでしょう。
そして生き残った多くの人は、九州北部に疎開して行ったであろうことは、容易に想像できることです。

けれど時は縄文時代です。
たくさんの避難民が押し寄せてきた時、その食をあがなえるだけの備蓄がどこのご家庭でも十分にあったとは思えない。
村が食うや食わずで、みんながやっと生きているところに、大量の避難民が押し寄せてきたらどうなるか。

実例があります。
戦後まもなく、日本がまだ焼け野原で、戦地から復員してきた600万人もの人々が、食や住を求めてさまよっていた日本が貧しく貧乏だった時代のことです。

朝鮮戦争が起きました。
韓国の初代大統領の李承晩は、北朝鮮軍に追われて、朝鮮半島中部のソウルから、なんと朝鮮半島南端の釜山まで逃げてきます。
その逃げる過程で、彼は、同国人(韓国の普通の庶民)がみんな北朝鮮のスパイに見えた。
だから彼は逃げる過程で、武器を持たない何万人もの韓国人を、一方的に虐殺しています。

その関係で、戦後間もなく起こった朝鮮戦争によって、韓国の避難民たちが、ボートピープルとなって大量に日本に押し寄せました。
そのころ、まだ本当に貧しかった日本で、多くの日本人の一般家庭で、こうしたボートピープルの韓国人をかくまい、保護し、食事を与え、風呂をわかし、家に泊めて世話をしてあげています。

東日本大震災でも同じですが、苦しんでいる人達がいたら、自分だって生活が苦しくたって、なんとかして守ってあげる。それが日本人の古来から続く国民性です。

おそらく7300年前のアカホヤ大噴火事件のときにも、まったく同様のことが起こったであろうことは容易に想像がつきます。
なぜなら日本人は、そういう気質を持つ国民だからです。
そのことは今も昔も何ら変わらない。

おもしろいことに、このアカホヤ大噴火事件を契機として、日本の遺跡から出土する釣り針が、突然、大きなものに変ります。
どういうことか。
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避難民によって、突然、村の人口が増えたのです。
けれど農作物も、山の幸も火山灰によってやられている。
食料の備蓄も、すぐに底をついてしまいます。
ならばどうするか。

そうです。沖に出れば、大きな魚を釣ることができる。
大きな魚なら、みんなが腹一杯、飯を食うことができる。
大きな魚を釣るためには、大きな釣り針が必要です。
で、突然、大型の釣り針が出土するようになった。

けれど、大型の魚を釣るために沖合にまで出ることは、遭難の危険を伴います。
海に流されてしまう。
実際にそういう事故も多数起こったことでしょう。

その結果、これまた不思議なことに、ちょうど7000年前頃から、とつぜん朝鮮半島の東側(日本海側)で、多数の「大型の釣り針」が出土されるようになったのです。
その作り方は、これまた面白いことに、日本で出土しているものとまったく同じ材質と形状を持っています。

不思議なことに朝鮮半島では、いまから12000年前からちょうど7000年前まで、人類の痕跡がまったく途絶えています。
その時代の遺跡がないのです。つまり人が住んでいなかった。

なぜか、という疑問が残ります。
答えは、実は簡単なものではないかと、思っています。
12000年前まで朝鮮半島に住んでいた人達は、火を使い、半島内の樹木の山々をみんな禿げ山にしてしまったのです。

山の樹木は、山に水を貯えます。そしてきれいな水をもたらします。
そしてまた、豊富な山の幸や小動物といった、人々が生きるに欠かせないタンパク源をもたらします。
けれど人が火を使うために、山の木々を燃やしてしまったら、それらが全部なくなってしまう。
水は汚れ、禿げ山は洪水をもたらし、小動物はいなくなってしまいます。
つまり、人が住めなくなってしまう。

世界の古代文明発祥の地は、世界中どこもそうですが、全部、砂漠化しています。
エデンの園は、いまではサウジアラビアのど真ん中あたりにあったとされているけれど、そのころ、緑豊かな大地だったサウジは、いまではすっかり砂漠地帯になっている。

日本も古代文明発祥の地だけれど、日本がいまだに緑豊かな大地を持っているのは、日本には古代から植林文化があったからです。
森の木を刈ったら、そこに新たに木を植える。
日本人と森は、古来、とても仲良しだったのです。

ちなみに、もしこれを読んでくださっている方が、お近くに山があったら、是非、その山の稜線をご覧になってみてください。
きれいな等間隔で並び、同じ高さの木々の姿を確認できるはずです。
なぜならその木々は、すべて人が植林したものだからです。

話が脱線しましたが、いまから8000年前には、灌漑農業による稲作を行っていた日本人は、7300年前のアカホヤ大噴火をきっかけに、大型の魚を釣り上げる沖合漁業をはじめた。
その結果、海難事故に遭った日本人が、朝鮮半島の東側にたどりつき、そこで生活をしはじめた。

12000年前に、朝鮮半島には人が住まなくなったと書きました。
そしていったん禿げ山となり、人が住めなくなった土地に、ふたたび樹木の茂った緑の山々が戻るまでには、数千年の時が必要です。

つまり、7000年前頃には、朝鮮半島にも緑が戻っていた。
そこに流れ着いた日本人達は、そこに定住し、徐々に人口を増やし、そして日本と行き来もするようになる。
こうして朝鮮半島に、再び人が住む時代がやってきます。

そしてこの人達は、何百年かの時を経て、支那の揚子江の流域に住むモンゴロイドたちと出会います。
彼らは同じモンゴロイドである揚子江流域の人々に、漆や土器、稲作を教え、そこで暮らすようになる。

もうひとつ大切なことがあります。
日本における縄文時代というのは、今から約1万7000年前(紀元前145世紀)ごろから、3000年前(紀元前10世紀)頃まで続いた文化の時代を指します。
日本国内で、この縄文時代の遺跡というのは、全国で数千カ所発見されていますが、そのどの遺跡からも、「世界中でどこの古代遺跡からも必ず出土しているのに、日本の縄文時代の遺跡からはまったく出土していないもの」があります。

何かというと、対人用の「武器」です。
人が人を殺すための「武器」が、日本の縄文時代の遺跡からは、まったく出土していないのです。

もちろん、矢じりや石斧、石包丁のようなものは数多く発見されています。
けれど、その矢じりはとても小さく、ウサギやたぬきを狩るための道具としては使えても、とても対人間用に使えるようなシロモノではない。

石斧も同じです。
柄が細く長くて、斧の先端の石が小さい。
こんなもので人をひっぱたいたら、柄の方が折れてしまって、戦闘用にはまったく役にたちません。

もっといえば、縄文式土器です。
縄文土器は、細工が細かく、秀麗な装飾が施してあることは、みなさんご存知の通りです。
このような丁寧な細工というのは、戦乱の世の中では、なかなか発展するものではない。
長く続く平和な時代、戦乱と縁遠い社会があってはじめて熟成されるものです。

ともあれ、日本の縄文時代の遺跡からは、対人用の武器がまったく発見されていない、というのは、きわめて注目に値する事実です。

古来、農作業、それも灌漑農業というのは、人々の集合体としての協力関係があってはじめて実現できるものです。
なぜなら、灌漑農業のためには、水をひくための水路が必要だし、みんなで協力してそれを作るだけでなく、日頃から水を汚さない、大切するという文化が必要です。
戦乱は、水路を壊すだけです。

しかも灌漑農業ともなると、水位そのものを上げたり下げたりという高等な技術が必要です。
これも、村人たち全員の協力体制が整って、はじめて実現することができる。

そうした中にあって、人々が殺しあったり奪い合ったりするよりも、むしろ逆に、互いに協力しあい、助け合うという文化を熟成していったというのは、ごく自然なことです。
そして、武器を持って粋がるよりも、手にスキやクワを持ち、みんなで協力しあって額に汗して働くことに生き甲斐や意義を見いだす。
そういう文化が日本古来の文化として育って行ったというのも、ごくごく自然なことです。

武器よりも道具を、奪うことよりも働くことを、殺すことよりも助け合うことを大切にする文化。
その文化のもとに、水耕栽培が開発され、アカホヤの大噴火を契機としてこれが朝鮮半島に、そして揚子江の流域の河姆渡(かぼと)に伝播した。

なるほど支那で発見されている古代のイネは、日本よりも古いものはあるけれど、そのいずれもが陸稲の香味米であり、灌漑農業を必要としないものです。
そして甘みの強い日本産の水稲は、むしろインドのタミール地方から、マレー、フィリピン、琉球諸島を経由して海洋ルートで日本に渡来したというのは、最近のDNAの研究から明らかになってきていることです。

さらに続けます。
おもしろいことに、河姆渡(かぼと)遺跡をはじめとする、支那の揚子江一帯にある水稲栽培や漆の遺跡ですが、ここでも、初期の頃の遺跡群からは、対人用の武器が発見されていない。
さらに住居は、農作物を守るための高床式住居であり、このあたりも7000年前頃の日本の縄文遺跡群と酷似しています。
つまり、日本の縄文文化が、揚子江流域にまで伝播したと思わせる痕跡が多数あるのです。

ところが、それから千年ほど経った、いまから6000年ほど前のことです。
黄河の流域に、黄河文明が誕生します。
こちらは竪穴式住居です。
そして大型の動物を狩る武器(もちろんそれは対人用にも使えます)が多数出土しています。

おもしろいのは、この黄河文明の遺跡から出土する人骨で、鑑定の結果、どうやら黄河流域に住み着いた黄河文明人たちは、モンゴロイドではない。
では何かというと、これがコーカソイドです。
つまりヨーロッパ系の白人種です。

彼らは、狩猟採取民族です。
大型の武器を操り、集団で大型動物を狩る。もちろんその武器を使って他の村を襲い、食料や女を奪います。
そしてある日、彼らは、長江流域に住むモンゴロイド達と出会う。

長江流域のモンゴロイドは、武器を持たず、農業を営む人達です。
武器を持たず、抵抗力のない人々の前に、武器を持ち、奪うこと、殺すことを生業とする人達が現れたらどうなるか。
食料は奪われ、農地は荒らされ、女は連れ去られ強姦される。

こうして2000年の時を経て、長江文明は政治的、文化的に完膚なきまでに黄河人たちによって滅ぼされます。
ある者は、村ごと支那の奥地に逃げ延びた者たちは、支那の少数民族として太古の縄文時代そのままの生活を
営んだ。
おもしろいことに、こうした支那の奥地に住む少数民族というのは、日本の縄文期の人々と同じ模様、同じ風俗のカラフルな装飾をほどこした布製の衣類を身にまとい、顔立ちも日本人そっくり、しかも武器をもつことよりも働くことに生き甲斐を見いだし、言語の語順も支那語と異なり、日本語と同じです。

長江文明を滅ぼしたコーカソイドの黄河人たちは、長い年月の間に、強姦によってモンゴロイドと血が混じります。そして人口の違いによって、外観はモンゴロイドに酷似するようになった。
それでも西暦210年から220年頃の三国志の時代には、まだまだコーカソイドの人種的特徴を持った人達がたくさんいて、ある者は、体が大きく、長い髭をたくわえ、またある者は、相撲取りのようなアンコ型の体型に、もじゃもじゃ髭という、モンゴロイドとはかなり人種的特徴の異なった支那人となった。
そうです。前者が関羽、後者が張飛です。

長い年月、武器を持った黄河人たちに奪われ、殺された長江人たちは、ただ殺されるままになっていたとは思えません。
中には、進んで武器を研究し、果敢に戦った人達もいたであろうというのは、容易に想像できることです。
けれどその人達は、妻や娘をなぶり殺された悲惨な歴史を持った人達でもあります。
当然、復讐のための戦いとなる。
戦いは陰惨をきわめたものとなり、互いに残酷な殺し合いが長く続いたことでしょう。

そして戦いはいつしか大きな集団戦となり、武器も大型化し、新たな武器が次々と開発され、支那は春秋戦国の時代を迎えることになります。

そしてこの春秋時代とほぼ時を同じくしてはじまったのが、日本の弥生時代です。

武器を持って奪う人達が、海を渡って日本にやってきたらどうなるか。
はじめは、縄文人たちも、殺され、奪われるままとなっていたことでしょう。
けれど彼らは、立ち上がります。
そして武器を開発し、その武器の使用方法や、用兵術を積極的に学び、工夫して、ついには彼らを撃退するようになる。

弥生時代といえば、弥生式土器が有名だけれど、縄文式と弥生式の最大の違いは、弥生式土器の方が、きわめて作りがシンプルであるということです。

教科書では、弥生時代は稲作が伝来した時期と教えているけれど、世界中どこの国でも、また現代でも大昔でも、稲作が渡来して生活が豊かになったのなら、生活用品である食器類は、贅沢なものになるのが普通です。
それが逆にシンプルになった。
ということは、縄文時代から弥生時代にかけての変化は、稲作文化が渡来して豊かになったのではなくて、せっかく日本が支那に水稲栽培を教えてあげたのに、かの国からは逆に武器を持って人が人を殺しあう文化が渡来してきたのではないか。

実際、弥生時代の遺跡から発掘される埴輪などをみると、突然、刀や槍を持って武装した人達の姿が描かれている。
しかも人々の服装はシンプルになり、食器(土器)も、それまでの豊かな装飾性がまるでなかったかのごとく、きわめてシンプルで実用的な土器に変化しています。

戦が起これば、逃げなければならないのです。
であれば、当然、服装は実用的な筒袖にズボン型になるし、食器もとりあえず使えればいいとなってシンプルなものになる。
誰がどうみても、そう考えるのが普通です。

日本では、ときたまやってくる乱暴な渡来人たちに対抗するため、弥生時代にはいって武器を持つ文化がはじまった。
それまで1万5000年もの永きにわたって続いた、武器よりも道具を、戦いよりも和を、奪うことよりも助け合い支えあってきた縄文文化が、変化したのです。

考えてみると、日本人のあたりまえのように思っている気質、つまり助け合うこと、支えあうこと、働くことに喜びを見いだすこと、和を大切にすることといった伝統的気質は、1万5000年も続いた縄文期に熟成されたものと見ることができようかと思います。

もうひとつ申し上げると、今回の漆の木片は1万2600年前のものだったけれど、日本で見つかっている最古の土器は、いまから1万6500年前のものです。
青森県の大平山元1遺跡で見つかった。
青森県のホームページを見ると、なぜかこの土器、「青森県最古の土器」と紹介されているけれど、とんでもないです。
1万6500年前のものということは、まぎれもなく「世界最古」の土器です。

1万年前といえば、ヨーロッパではまだ旧石器時代です。
毛皮を来て、石斧を持って、ひげもじゃらの原始人たちが、ウッホウッホとやっていた。

それよりも6500年も前に、日本では非常に高度に発達した文化が熟成されていた。
その時代に、日本では、土器を作り、集落を営み、武器を持たずに人が人を助け合う文化を熟成させていたのです。これはすごいことです。
また、誤った教科書などの影響で、多くの日本人が、縄文時代の日本人は、鹿の毛皮をまとった半裸の姿で、石斧を持ってウッホウッホとやっていたかのように印象づけられています。

けれど、今回漆の木片の出土した鳥浜貝塚からは、布製の衣類も出土している。
なんと、その装飾(模様)や仕立ては、当時の着物を来て原宿の街を歩いても、なんら違和感のないほど、精巧で、美しい衣類です。

※参考「世界に誇る縄文文化」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-802.html

さらに、漆についていえば、北海道の函館市の垣ノ島A遺跡で出土した注口土器は、いまから3200年ほど前のものですが、なんと黒漆を下塗りし、上から赤漆を塗って味わいをだした非常に美しいものです。

注口土器
注口土器


さらにこの遺跡からは、「足形付き土器」というものが出土しています。
これは亡くなった子供の足形を粘度版に型どったもので、多数のものが見つかっている。

足形付き土器
足形付き土器


いまでは医療が発達し、子供が死ぬケースはごくまれだけれど、ほんの100年くらい前まで、日本に限らず世界中どこでも、子供というのは、よく死ぬものだったのです。

幕末に有名な大老、井伊直弼は、井伊家の14男坊です。
14男が井伊家の跡継ぎとなったということは、長男から13番目の兄貴までが、みんな亡くなってしまったということです。
昔は、それだけ子供が生き延びてオトナになるのが、たいへんなことだった。

けれどこれだけはいえるけれど、産んだ親にしてみれば、亡くなった子も我が子です。
年老いても、幾つになっても、絶対に忘れることはありません。
ウチの死んだオヤジは、長男ですが、男4人兄弟です。
けれど、オトナになるまで育つことができたのは、長男坊のオヤジと、末っ子の叔父貴だけです。
次男と三男は、やはり病気で子供の頃に亡くなっている。
死んだ婆さん(オヤジの母)に、まだ子供だった頃のボクは、亡くなった二人の自慢話をよく聞かされたものです。

幕末頃といわず、昭和の時代でさえ、つい最近までは、そうだったのです。
ましていまから1万年以上も昔の縄文期では、なおさらです。
だからこそ親たちは、亡くなった子供の足形を粘度板にとって、大事に大事にした。
それが私たちの祖先です。

人は、おおむね25年で一世代が交代していきます。
これは今も昔も変りがない。
爺さんから、オヤジ、自分、そして子が大きくなって現役のオトナとなるまで、これが100年です。

古事記が書かれてから、来年で1300年になります。
ということは、古事記が書かれてから、だいたい50世代です。
これに対し、日本の縄文文化の時代は、1万5000年、なんと600世代がそこに生きた。

だいたい国民の特徴は、400年で外観や気質が固定すると言われています。
その約40倍の長い期間、私たちの祖先は、武器よりも働くこと、和を尊ぶ文化をずっと守り通してきた。

日本文化は、世界の良心の「最後の砦」だと言った人がいました。
ボクもそう思います。

日本がアメリカや、特アの国々に翻弄され続けているのは、戦後の日本人が、日本人としての価値観や国家観、誇りを失っているからだといわれています。

いまこそ、私たち日本人は、世界最古の和の文明を開花させた誇りある民族であることの誇りと自覚を取り戻すべきときです。
そして日本が、再び太陽を登らせるとき、世界は本当に目覚めることができるのではないか。
そんな気がします。


最後にひとこと付け加えます。

垣ノ島B遺跡から出土した漆器は、なんといまから9000年も昔のものでした。
ところが非常に偶然、この遺跡は2002年12月28日の深夜に火災にあっています。
そして8万点にも及ぶ出土文化財や、写真や図面がまる焼になった。

幸い、関係者の必死の努力で、漆塗りの製品の形の認識や繊維状の痕跡がはっきりと視認できる部分は焼失を免れたのだけれど、支那よりも古い漆器が出土したことが確認された途端、その遺跡が不審火によって火事に遭っている。

そしてまた、漆器は、なぜか支那のものが古く、日本はそれを輸入したという説ばかりが、妙に垂れ流されている。
稲作と同じです。
現実に遺跡の年代測定をしてみれば、明らかに日本の水稲栽培の方が古いのに、なぜかいまだにそのことはあまり公にされない。

それどころが世界最古といって良い、日本の縄文時代の遺跡群は、学会において決して「縄文文明」とは呼ばれることはありません。
ところが支那の長江流域の河姆渡遺跡などは、「長江文明」と、なぜか「文明」として発表されています。
そういう点、なにやら非常にキナ臭い。

逆に言えば、日本人が日本文明の文化意識、国家意識に目覚め、日本人としての普遍的な歴史認識を取り戻すことが、いかに彼ら特アの工作員さんたちにとって、脅威であるかということです。

けれどいくらガリレオを否定しても、天動説が正しかったように、日本をいくら否定し、日本人からいくら歴史観を奪っても、ひとたび東日本大震災のような大事が起これば、実に整然とした日本人の美質が、自然と発揮されてしまう。
これはもう、縄文時代から培われた、日本人のDNAのなせる業としか言いようがありません。

あとは、日本が、しっかりとした歴史認識を取り戻すこと。
日本人が、日本人としての誇りを取り戻すことなのではないかと思います