メチャクチャ長いので気合い入れて読む人は呼んで


2011年10月13日に、福井県若狭町の鳥浜貝塚から昭和59(1984)年に出土していた漆のの木の枝が、約1万2600年前の縄文時代草創期のものであることが、東北大の鈴木三男教授(植物学)ら研究グループの調査で分かった、というニュースが流れました。新聞などでご覧になられた方も多いかと思います。

この漆の枝は、長さ約20cmくらいの木の枝です。
森林総合研究所(茨城県つくば市)で、2005年に顕微鏡で漆と突き止められました。
今年8月には、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(通称:暦博)で放射性炭素による分析が行われ、なんとそれが1万2600年前のものであることが判明しました。

実はこれはたいへんなことです。
単に日本に漆の木が自生していたという話ではありません。

なぜなら漆の木というのは、漆塗りのための樹液を採取するために木を植えただけでは育ってくれないものだからです。下草を刈って、毎年毎年手入れをしながら、樹液の採取ができるようになるためには10年近くもかかるからです。

ですから民家、村落があった証拠である貝塚から、漆の木が出土したということは、いまから1万2600年前に、すでに人々が定住し集落を営んでいた、漆の木を目的をもって栽培していたということの証拠です。

考古学者の中には、そのころの日本人(縄文人)は、まだ定住性がないから、漆は「栽培」したのではなく、「自生」していたにすぎない、と反対する人もいます。
こういう学者は、あくまで漆は支那から渡来したものと言いたいらしい。

けれど検査の結果わかったことは、この漆の木片は、日本固有種であって、渡来ものではない、ということです。
さらにいうと、いまから9000年前の漆塗りの製品として、北海道函館市の垣ノ島B遺跡で漆塗りの副葬品が発見されている。

なるほど漆は、長いこと支那から日本に渡来してきたものだと言われてきました。
支那の浙江省、河姆渡(かぼと)遺跡で発見された漆椀は、いまから約7000年前のものです。同省の跨湖橋(ここきょう)遺跡で発見された漆塗りの木弓が約8000年前のものともいわれている。

けれど、なにせ白髭三千丈の国です。
そもそも河姆渡(かぼと)遺跡というのは、いまから7000年から6500年前の遺跡です。漆椀の7000年前は納得できるとしても、漆塗りの木弓だけが8000年前のものだというのは、どうも眉唾の可能性が高い。今後の年代測定の確認作業が待たれるものです。

要するに何がいいたいのかというと、漆塗りは、日本で生まれ、支那に伝播した可能性が高い。

日本で発見されている漆塗り製品の方がはるかに古く、漆の栽培の痕跡は、支那の河姆渡(かぼと)遺跡や跨湖橋(ここきょう)遺跡のものより、さかのぼること4000年〜5000年も古いものであるということだからです。

地政学的にみると、もっと面白いことがわかります。
日本ではいまから7300年前に、鹿児島の南にある鬼界カルデラで火山の大爆発が起こっています。
これは「アカホヤの大噴火」と呼ばれ、日本史上最大の火山の大爆発です。

この噴火で地表に出たマグマは1兆3000億トン、噴出量の対数からはじきだされるマグニチュードは、8.1です。東日本大震災以上です。
噴出した火山灰は、遠く東北地方まで降り積もっている。

噴火のあった7300年前というのは、注意が必要な時期です。

実は、大陸から渡来されたとされる稲作ですが、この稲作に関する遺跡が日本では、岡山県の彦崎遺跡や朝寝鼻遺跡で、8000年前のものとされる水田跡や大量の籾(もみ)の化石が見つかっています。

稲というのは、そもそも熱帯性植物です。
その熱帯性植物を温帯地方の日本で育てるのです。
水田は、田植えの頃には田に水をひき、稲の生育に合わせて田から水を抜いて乾田にするけれど、これは熱帯地方の雨季と乾季を人工的に現出させるためのものです。

田に水を入れたり抜いたりするには、水の「水位を変える」という灌漑(かんがい)技術が必要です。
これはすごい技術です。いまどきの言葉で言ったらイノベーションです。革命的技術革新と言っていい。
そして古来、こういう工夫は、日本人のお家芸です。

一般に稲作が始まったとされる弥生時代は、いまから約3000年前から2000年前頃までの時代です。
ところが8000年前には、日本で既に稲作が行われていた。
そうすると、弥生時代に「大陸から稲作が伝来した」という教科書の記述は、どうやらかなりあやしいということになります。

つまり日本では、いまから12600年前には漆が栽培され、9000年前には漆塗りの製品が普及し、8000年前には灌漑農業による稲作がはじまっていたのです。

そして7300年前には、アカホヤの大噴火が起こり、甚大な被害が発生する。
降り積もる火山灰は、農作物に壊滅的打撃を与え、人々の生活を奪います。
多くの人が亡くなったと思うけれど、そういう大規模自然災害のなかにあっても、生き残る人というのは必ずあります。
その生き残った人々はどうしたのでしょうか。

鹿児島県沖で起こった噴火です。
おそらく南九州地方の人々は、壊滅的打撃を被ったことでしょう。
そして生き残った多くの人は、九州北部に疎開して行ったであろうことは、容易に想像できることです。

けれど時は縄文時代です。
たくさんの避難民が押し寄せてきた時、その食をあがなえるだけの備蓄がどこのご家庭でも十分にあったとは思えない。
村が食うや食わずで、みんながやっと生きているところに、大量の避難民が押し寄せてきたらどうなるか。

実例があります。
戦後まもなく、日本がまだ焼け野原で、戦地から復員してきた600万人もの人々が、食や住を求めてさまよっていた日本が貧しく貧乏だった時代のことです。

朝鮮戦争が起きました。
韓国の初代大統領の李承晩は、北朝鮮軍に追われて、朝鮮半島中部のソウルから、なんと朝鮮半島南端の釜山まで逃げてきます。
その逃げる過程で、彼は、同国人(韓国の普通の庶民)がみんな北朝鮮のスパイに見えた。
だから彼は逃げる過程で、武器を持たない何万人もの韓国人を、一方的に虐殺しています。

その関係で、戦後間もなく起こった朝鮮戦争によって、韓国の避難民たちが、ボートピープルとなって大量に日本に押し寄せました。
そのころ、まだ本当に貧しかった日本で、多くの日本人の一般家庭で、こうしたボートピープルの韓国人をかくまい、保護し、食事を与え、風呂をわかし、家に泊めて世話をしてあげています。

東日本大震災でも同じですが、苦しんでいる人達がいたら、自分だって生活が苦しくたって、なんとかして守ってあげる。それが日本人の古来から続く国民性です。

おそらく7300年前のアカホヤ大噴火事件のときにも、まったく同様のことが起こったであろうことは容易に想像がつきます。
なぜなら日本人は、そういう気質を持つ国民だからです。
そのことは今も昔も何ら変わらない。

おもしろいことに、このアカホヤ大噴火事件を契機として、日本の遺跡から出土する釣り針が、突然、大きなものに変ります。
どういうことか。
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